ここには、明治天皇が外交に如何に配慮されたかを、吉田要作氏の謹述により記されている。
國交上の御軫念
宮中顧問官 吉田要作
明治天皇が、内政に關して常に深甚の御注意を拂はれたことは、今茲に申し述べるまでもないことであるが、 陛下にはまた、これと同様に、外國關係( 外国関係 )即ち國交親善( 国交親善 )のために御心を注がせ給ふこと厚く、これについても、今思ひ起すだに畏れ多い程の御努力を召されたやうに拜察( 拝察 )された。いや御努力といふよりは、むしろ天縱の御器量と申し上げた方が適當( 適当 )であらう。
例へば、毎年の觀櫻・觀菊會( 観桜・観菊会 )に際し外國使臣を招待された時、又は國際關係( 国際関係 )上の事で、外國( 外国 )使臣に謁見を賜ふといふやうな時にも、はるかに拜するに、二十有餘の外國使臣に對して( 対して )、一人一人に謁見を賜ひ、而もその一人每に、厚い御言葉を賜はり、その國の模様、その國王( 国王 )の健康、その國政( 国政 )の事情、はてはその使臣の日常など、各人各様に、實に適切なる御會話( 御会話 )を遊ばされる。さうしていづれの使臣に對しても、衷心御親しみある御態度を以て對せられたのであつた。隨つて外國使臣達も、みな異常の喜びに滿ちつゝ御前を退出するやうに見受けられた。―その間一時間半、乃至二時間、御相手は變るが( 変わるが )、 陛下はたゞ御一人であらせられる。畏れ多いことながら、定めし御疲勞( 疲労 )遊ばされしことゝ仰ぎ見るに、 陛下には依然端然たる御態度で、いさゝか御疲勞の御様子も見せ給はぬのである。實にかくの如き御精力( 精力 )の絶倫と、圓通無礙の聖德とは、侍臣をはじめ外國使臣一同の驚異であつた。
私も、職務上、外國の皇帝に謁見したが、我が 明治天皇が外國使臣に謁を賜ふ御態度は實に御立派なものでした。
それについて思ひ出される一つの挿話がある。
それは、明治十三年( 1880年 )のこと、イタリー皇帝( イタリア国王ウンベルト1世 )の從弟( 従弟 )にわたらせられるジエノア公( 第2代ジェノヴァ公トンマーゾ )が、日本を御訪問になつたことがある。當時( 当時 )、その接伴長は故鍋島直大侯で、私は、外務省からの接伴員であつたが、イタリー皇帝から、 明治天皇にアンノンシヤード( アンノンシャード )と言ふ勳章( 勲章 )を御贈進の御使命を持たらせられ其の捧呈式( 奉呈式 )を行はせられたのであつた。此の勳章はイタリー( イタリア王国 )で最高の勳章で、これを贈られたものは、イタリー皇帝の從兄弟( 従兄弟 )になると言ふ規程があるので、捧呈の儀式として、特に接吻すると言ふ習慣になつてゐた。
併し、今日なら大して奇異にも感じまいが、まだ明治十三年の頃接吻などと言ふことは、どうかと思はれたので、私は、一應( 一応 )ジエノア公に、その接吻の禮( 礼 )なるものを伺つて見た。すると、『キツス( キッス )と言つても、たゞそのカタチをするだけのことであるから』といふ事であつたので、兎も角も 陛下に、前以て御伺ひしておかなければと、係の者から御伺ひすると、陛下には、『差支えない』と言ふ仰せ、ホツと安心して、さてその捧呈の儀式になつた。が侍臣をはじめ接伴員一同も、慣れない儀式なので、ひそかに氣遣ひ( 気遣い )申し上げてゐたが、その儀式に於ける 陛下の御態度の御立派にあらせられたこと、侍臣一同たゞたゞ感激恐懼するばかりであつた。
「帝王自有眞」といふ語があるが、我が 明治天皇の如きは、正しくそれでいらせられた。如何なる時、如何なる場合にでも正々堂々として大道を行く、といふやうな御態度は、どうしても偉大なる帝王としての天授の御德量でいらせられた。固より凡人の及ぶ所ではない。
一部の漢字は原文と違います。
トップがしっかりとしていてこそ、明治の発展もあり得たか。
それにしても、明治天皇に奉呈された外国の勲章と来れば、英国のガーター勲章が有名だが、それ以外の国の勲章になると分からんね。
ここのアンノンシャードにしても、さっぱりだし。
ページの上に戻る