「食道楽 夏の巻」村井弦斎(1863~1927)著(本名 村井寛)
明治のベストセラーである。
明治36年10月10日印刷、10月13日発行で、値段は80銭か。( ̄∇ ̄*)ゞ
明治36年は1903年だが、この当時の80銭の価値は此れ如何に!?ヽ( ̄▽ ̄)ノ
さて、この食道楽で興味深いのは、本文の上欄に記されている多くの註釈だな。( ̄ー ̄)
その一つが、日本料理の由来について。
〇日本料理の由來( 由来 )は林生が報知新聞に載せたる料理談に審なり、此に錄して同好者に示す
料理は人皇第十二代景行天皇の時から始つたので甚だ古いものだ、天皇が上總( 上総 )に幸せられて鳰( にお )の浮島の宮に居られて獵( 狩 )に御出でになつた、其時六雁命が天皇に御共奉りし時遥かの海のかなたにコウコウと啼て居る鳥があつたので、天皇は六雁にあの鳥捕へよと御仰られた、命は畏まつて鳥を捕へに行きしも鳥は逃げたが、側らに大きな蛤が居つたのでそれを捕て來て膾( なます )にしたり煮たり燒いたりして天皇の御歸りを待つて差上げた、天皇は大に御喜になつて、是れは自分一人で拵へて食べるものではない爾來は汝の子孫に膳部頭を任ずる、もし汝の子孫にする者なきときは朕が子たちにさせよとの詔勅であつた、其後命は膳臣の業となつて代々仕へ奉り、其子孫が高橋朝臣の姓を賜わり、景行天皇以來連綿として續いて( 続いて )維新前まで及んだ、是が大膳職の起源である、因に毎年宮中に於て新嘗祭を行はれるがこの新嘗の祭りは六雁が傳へし( 伝えし )者である、紀元五百年前光孝天皇は天皇御自身で料理をおやりになつたと見える、(夫れは大鏡にも出て入る) 天皇御自身で料理をなさる時は山上中納言が助けた、芹川へ御幸の時御共し奉りし、中納言が料理の手助をした所から天皇より高橋の末の方と仰せられ御用ゐに成つた、其の時より四條流( 四条流 )の式が始つた、山上中納言は天長頃に生れたので今より千五百年程以前である、其の後段々四條流が臣下の方に用ゐられ太政大臣以下は皆な四條流を用ゐて居た後世賴朝足利になつて四條流もあつたが他に色々な料理が初まつた、而して庖丁( 包丁 )が非常に流行したもので足利頃のは庖丁の名人に園別々當入道( 園別別当入道 )と云ふ人があつた、料理は皇室の方と臣下の方と二つある、足利時代には四條流の中から大草流と云ふ者が出來た是れは四條流の分れである、
德川( 徳川 )時代になつてから幕府で用ゐたのは四條流と園部流である、園部と云ふのは園部新兵衛と云ふ人が種々研究して其の時勢に合はして拵へたもので之れが幕府の料理の源なのである、
料理に庖丁を使ふのは甚だ古くから行はれたもので、一番古いのは景行天皇時代少し以後の人で高橋氏文と云ふ人で是れが日本に於て料理の開祖と云ふてもいゝ此時代の切り方は非常に鄭重にしたもので、臣下でもそれを重じて使つた、庖丁の外に箸を使つたことは多くの人が知つて居ると思ふ、
徳川幕府の時京都から年々春三月勅使を遣はした、それゆゑ幕府では前年の十月頃から御馳走役と云ふものが極まる而して諸役人の役割りが定まる、此の役人が集まつて翌年の御馳走の調べをする、御馳走役は大方柳の間(二三万石の小大名)が其の任に當るので用掛は高家、御膳所の總體掛( 総体掛 )が勘定奉行、普請役、代官等である、
翌年の春になると御風味と云ふことがある、夫れは上通りの献立、中通りの献立、下通りの献立、下等の献立と云ふ者を一と通り仕立て見る、則ち下溫習をする、料理人は一と通りの献立を仕立て差出し老中方に伺つて取り極めて道具其外其日の入用の品を注文するのである、愈々勅使の着日になると着日は三汁一菜、夕飯が三汁九菜、晝飯( 昼飯 )が一汁五菜と云ふ定めである
勅使二人の料理人が十一人で其外煮方、極方、燒方( 焼方 )、摺方、板先、等である其の極方と云ふのは是は野菜などを預り何に使ふ彼に使ふと一々仕譯けをして、使ふ人で、板先は臺所( 台所 )を働く下男である、其外淸汁方(椀方の事)と云ふのが二人居る、其中の役割は頭取、副頭取、板頭、板脇等で、あとは唯だの料理人が總體十一人である、魚を使ふのも眞魚箸( 真魚箸 )を使つて刺身には決して手を附けない、すべて眞魚箸で料理るのである( 料理するの、すが抜けているのか? )
勅使二人の入費が一日千兩( 両 )と定めてある、此の千兩は先づ上通り中通り供方、其他諸役人の料理、料理人の給料からすべての入費一式が千兩であらうと思ふ
勅使に差上る料理は朝、晝、中食、夕都合四度である
勅使御着日の御膳部の數は三汁十一菜で本膳に膾、汁、壺に香の物で、二の膳に杉箱、小桶、大猪口、二の汁、三の膳は杉地紙に刺身、熬酒而して茶碗が附く、四の膳に鯛の燒物( 焼物 )が附く、五の膳に酢甘鯛、大ビラと云ふ順序で勅使着日の膳部は此の位だ、杉箱と云ふのは丸いマゲ物で蓋が有る、ソレに足の有る臺が附て居るのである、小桶と云ふのは是も丸いマゲ物で上げ底になつて居る、入れる所はやうやう一寸位しかない、其の中に熨斗もみと云ツて昔の鮑熨斗がある、夫れを画き中へ入れたのである、杉地紙とは扇子の地紙の形になつて居る、それに鯛の細作りを付けて而して造花で南天に熊笹の葉を付ける、是れをカインキと云ふのである、
其外汁物は本汁と壺に二の汁、三の汁、茶碗、大ビラは三度上げる、此の膳の替りを以てくると前のと引換へて出すのである、勅使に出す膳は、初め配膳と云のが改めて代官に出す、代官が一應改めて雜所へ持て來る雜所で亦た改めて勅使の前へ供へるのだから汁物等は勅使の前へ出す迄でに随分冷めて居る、
菓子皿は杉のフチ皿(曲物)で夫れへ干菓子が二種蒸菓子が二種、盛り合す、それは薄茶菓子である、濃茶菓子は杉のフチ高へホンの蒸菓子が一つ夫れを天目臺( 天目台 )か三寶( 三宝 )へ載て出すのである、
勅使は先づ此の位だ、宮、だの大臣、だのは大分器が替わる、總て器が太白の瀬戸物で夫れが御鉢は勿論杓子まで殘らずである、而して銚子は長柄、鍬柄の葵紋附の銀無垢で湯ツギも水ツギも銀無垢だ、料理は勅使と大差がないから畧して( 略して )置く、
夫れから大名の料理は以前は柳の間、帝鑑の間御乗出しと云ふと、同席を招く例である、同席も向ふ側三人兩隣二人と云ふ席順で招くのである、其外引受と云ふて乗出しの時登城万事の世話する人がある、
客を招く其の入費は一人前十兩位の料理だ、口取り等は客が食べるなら幾らでも取足して出す、其他肴でも同じことだ、
以前は大名が食ひ餘りを折に詰めて持つて歸る様なことはなかつた、夫れ故に別に土產( 土産 )として菓子と燒物を奉書紙に包んで上げるのだ、それを御先箱に入れて歸へる、
昔は一度箸を附けた物を土產にしては亭主に對して失敬に當るとしたものだが、今の人は夫れを土產に持て歸るのが當り前の様に思ふて居る、
大名が表だつた御客は朝の十時だ、十時になるとキチンと揃ふ、客は裃(大禮服)である、亭主は客と式の如く初めての盃事と云ふがある而も夫れが終むと本膳が出て、二汁五菜と云ふ料理だ、客は裃のまヽで食べる夫れが濟むと、御間置きとなるのだ、其の間に御庭の方へ中立をする而して客は裃を取つて袴になる、夫れから別間に案内する、一同の客が別間に着座すると、餘興として席画をする、その中に椀盛り菓子が出る、夫れは椀に今云ふ菓子椀三種位盛ツて、香の物銘酒をそへて出すのだ客は画家が席画をして居るのを見てその菓子を食べる、席画の餘興が濟むと、御吸物、硯蓋、刺身、鉢肴、丼、大ビラ物順に肴が出る、しまいに後段になる、後段は蕎麥汁粉を出す、夫れは別に定めはない時に依つて蕎麥( 蕎麦 )を出したり、汁粉を出すのだ、
大名が裃を取つて袴に成つて後に出す吸物を服紗吸物と云ふ、夫れは裃を取れば服紗の袖だと申すことが有るから夫れから推して服紗吸物の名が出來たのだと思ふ、
それから一寸生作のことを話そう、然し料理法は食道楽で弦斎先生が委しく御話しに成つて居るから簡短に申して置く、先づ鯉の活きて居るのを眼に布巾か何んかを掛けて隱して置いて鱗だけ取つて、作り身にして掘り井戸の水で三四度も晒して更らに又水で晒して其の晒した作り身を以前の鯉の體の如く盛り薄く殺ぎ取つて鱗を先の如くにかぶせるのだ、
さうすると肉が隱れて鯉の體に庖丁を入れた所がない様になつて居る、之れが本當の生作りだ、
鯉の細作りと云ふのは、之れは生て居るのでなない鯉をスツかり上げて水氣のとれた所で刺身庖丁で小骨の有る所を取り去つて而して縱に細く切る其の細さは一分位で細長く蕎麥の様にするのだ、
眞魚箸( 真魚箸 )は長さ一尺位で其の眞魚箸の用ひ方は中指と薬指の二本を間に入れて人差指と小指の方を箸の頭の方に附けて拇指を片一方の箸の方に添へて持つのである
一部の漢字は原文と違います。
この様に、「食道楽」に於いては、上欄に数多くの註釈が書き加えられている。
「夏の巻」には、この「日本料理の由来」の他に、「夏の飲料・ラムネについて」「氷の注意」「化粧と衛生」「島津公爵家家庭教師ハワード嬢と村井吉兵衛氏家庭教師スクアイア嬢の談話」「白粉問題諸名家の説」「サルチル酸についての注意」「夏の小児養育法」等の記述があり、それ以外では、本編に関する料理の作り方が説明されている。
今回は日本料理の歴史について書かれた部分である訳だが、確かに色々と詳しく記述されている。徳川幕府の勅使饗応や大名による客の接待の仕方も興味深いものだ。
一つ気になるのが、「カインキ」とは何なのか?
検索しても情報が無いんだが。(´・ω・`)?
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