次は、日清戦争・日露戦争の名参謀長、川上操六(1848~1899)と児玉源太郎(1852~1906)のお話。この戦争の歴史を知る助けになるかな?
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流石は川上操六
麹町の川上操六將軍の邸を訪問したのは、福岡( 福岡 )の的野半介、陸奥外相の紹介があつたので、將軍( 将軍 )は、直ちに引見した。
『どういふ用向か』
將軍は、率直にいつた。
『早速でございますが、我が帝國( 帝国 )は、十五及び十七年の政變( 政変 )以來、朝鮮に於ては、淸國( 清国 )政府の侮辱をうくる事一再ではござりませぬ。然るに今回、李鴻章が日本亡命中の金玉均を誘ひ出して、暗殺せしめたる暴狀は、明らかに朝鮮併合の野心を逞うする爲、日本に挑戰( 挑戦 )したものと見てよろしいと存じます。帝國としては此の際、斷然( 断然 )たる處置( 処置 )に出づべきものと考へますが、閣下の御意見は如何でござりますか』
的野の質問に對する將軍の答辯( 答弁 )は、簡にして且單( 単 )。
『意見はない、わしの腹は、已に極まつて居る』
『では非戰論( 非戦論 )でござりますか』
『いやさうでない』
『然らば、主戰論( 主戦論 )でござりますか』
『無論』
『それは近頃心强いことでござります。然らは何故、閣下は、政府當局( 政府当局 )を鞭撻して下さりませぬか』
『わしは軍人だ。政治の實權( 実権 )は、伊藤總理大臣( 伊藤総理大臣 )の手にある・・・・・・しかし君は、陸奥さんの紹介によると、玄洋社の關係者( 関係者 )と聞いて居るが、斯ういふ危急の場合に、生命を投出すものが一人や二人ゐさうぢやな』
將軍は、途方もない事をいひ出した。
『居りますとも、社員悉く生命を投出す覺悟( 覚悟 )をもつて居ります』
『それなら結構、早手まはしに火附をするがいゝ、火の手が上がつたら、それを消し止めるのが、我々の職務である。わしは軍人だから、政治上の意見については外に申し上ぐることはない』
頗る味のある一言。的野は、ハツとした。成程さうだ、うまいことを言つてくれた。火附ぢや、火附ぢや、將軍は、それとは明らさまには言わぬが、玄洋社の壯士( 壮士 )が、渡韓して、此の場合一騒動起したら、必ず日淸の間の波瀾が持上る、政府としても黙つて見ては居られぬ事になる、さういふ勢いを作るがいゝ、跡のところは、軍隊に任せろ、勝算はあるぞといふ謎である。―的野は、さう解釋( 解釈 )した。
かへつて來て、同志に此の一條を耳打した。
『流石に川上だ』
議は立ちどころに一決した。
天佑使の一團( 一団 )が、東學黨( 東学党 )と共に、朝鮮で事をあげたのは、それから間もなくだつた。李鴻章は、直隷兵三營即ち千五百人を牙山に送りこんだ。
日本も、これと對抗( 対抗 )する爲に、混成旅團( 混成旅団 )の兵七千餘を半島に出兵した。だが、日淸戰役( 日清戦役 )は、かくして火蓋を切つたといふ裏面の消息は、餘り世間に知れ互つてゐない。
果然、川上は日淸役の總參謀( 総参謀 )として、見事に戰勝( 戦勝 )の榮譽( 栄誉 )を荷うたのである。
宵越しの仕事は大嫌ひの兒玉大將
今日の此の梅雨期に似たる政治界に、霹靂一聲快晴を呼び起こす底の大政治家、大果斷家を想ふ時、何人も故兒玉大將( 児玉大将 )を偲ばぬものはなからうと思ふ。
大將が精悍・剛毅・果斷、而して思慮周到の結晶であつたことは世人の熟知する處である。今、大將の事務を執らるゝ要領の一端を述べてみよう。大將が陸軍次官の頃、私は軍事課員であつたが、私が大將の下に附いたのは、これが初めてゞあつた。第一回に或仕事の書類を持つて次官の前に行くと、次官は例の眼玉でぎろりと私の顔を射て曰く、
『君は仕事のにらみがきくか?』
『きゝます』
と私は即座に最も自信ある聲( 声 )で答へた。・・・・・・・・・・次官曰く、
『よし』
と、座禪( 座禅 )問答見たやうな口答試驗( 試験 )、それだけで書類もよく見ずに直ぐ書判をして渡された。
又臺灣總督( 台湾総督 )の時代に、私は副官として附いて行つたが、この時分の臺灣總督の権威は大したもので今日の總理大臣( 総理大臣 )などの比ではなかつた。民政長官に後藤新平君、其の下には石塚君・中村君等當時のやり手を殆ど悉く網羅して威風堂々、えらい權幕で乗り込んだものだつた。隨つて陸軍の方でも、副官などの希望者は大學( 大学 )出も閥族もウジヤウジヤ大競争をしたものだ。ところが私は木から落ちた猿で、とても此の競争の渦中に投ずる資格はないのであるし、今から考へても隨分無茶な思ひ切つた事をしたと思ふが、私は大膽( 大胆 )にも夜八時頃今の藥王寺前に在る次官の宅を訪問して大將に向つて、次の如く申し出でた。
『臺灣總督府( 台湾総督府 )副官には私が最適任でございます。是非おつれ願ひます』
大將は何とも答えられなかつた。私はそのまゝ辭去( 辞去 )した。成否は勿論考へなかつた。大將がどう思はれたか、そんな事も考へなかつた。翌日陸軍省に出勤すると、次官室から呼びに來たので、おこられるだろう』と腹をきめて次官室に入ると、意外にも次官から總督副官( 総督副官 )の辭令( 辞令 )を渡された。私は感極まつた。
『士は己を知る者のために死す』
と、深く決心したのである。
大將がいかに閥族や學歷( 学歴 )に拘泥しないで仕事をされたかと言ふことが、分るであらう。私は、大將の眞面目を傳( 伝 )へるために敢へて私の體驗( 体験 )せる事實( 事実 )を述べるのである。自薦自推した事は、大將と私の外は決して大將の家族の方でも知る人はないと信じて居つたが、數年( 数年 )の後、怪傑杉山茂丸翁が此の秘事を大將から聞いて知つて居つて、寺内伯などに洩らしたには閉口した。
兒玉大將は、如何なる仕事でも宵越しは大嫌ひであつたから、何事か命ぜられると、晝夜兼行( 昼夜兼行 )、不眠不休でやりあげなければならない。さうすれば大概お小言は喰わないが、緩慢な仕事、不正確な意見など持つて行けば、忽ち百雷の如く「馬鹿!」と壓死( 圧死 )せしめらるるのである。決して情實( 情実 )や人に依つて斟酌せらるゝ事はなく、公平無私、烈日の如くであつたから、部下として仕事をするにも張合ひがあつて愉快であつた。
大將は實に人情に厚い人であつたから、一度使はれた小使や、庭掃除の臺灣人でも、慈父の如く懐しみを持つたのである。兒玉大將が公私の區別( 区別 )を最も明らかにされた事には、今日のソンジヨソコラの政治家には容易に見出されぬ面白い美談がある。それは日露戰役間、大將は參謀本部( 参謀本部 )に泊りきりで居られたが、或晩おそく大いに酩酊した新橋の有名な某料理店の女將( 女将 )と某有力將軍とが陸軍省の裏門をたゝき起すので、門番は宿直判任官と共に出て見ると、女將と某將軍だから、公用かと訊くと、將軍は勿論、女將までが大威張に門番を叱りつけて、
『兒玉さんに面會( 面会 )に來たのだ』
と怒鳴るので、門番は、
『女將などに公用があるものか?』
と門をぴしやりと締めてしまつた。
二三日經つて、ある宴會( 宴会 )の席で、其の女將はあの門番と判任官は無禮( 無礼 )だと大いに怒つて、大將に言ひつけたものだ。すると大將は笑つて居られたが、其の翌日、其の門番と判任官を呼び出して金一封を與へ、其の職務に忠實( 忠実 )であつたことを賞されたのである。
今日、世界的大日本の舞臺( 舞台 )に、兒玉大將が在つたならば、對支・對米・對歐・對露何かあらんやである。況や、對内の如きは思ふ存分發展( 発展 )策を行はるゝであらうと、私は天を仰ぎて獨り慨嘆禁ずる能はざるのである。(堀内信水)
一部の漢字は原文と違います。
堀内信水とは堀内文治郎陸軍中将だそうです。
上記の様に記述されている訳だ。昭和2年に発行された「明治大帝付明治美談」の川上操六将軍と児玉源太郎将軍のお話ではね。これが、当時の歴史認識の反映であるしね。
この話では、川上将軍が直接戦争を煽ったかの様に書かれているが、実際はどうだったか?
ただ 、昭和の始めの段階で、この内容で美談とされている所が重要な点だろうね。
次に、児玉源太郎将軍の話は、堀内文治郎氏の思い出によって綴られているが、少し心酔の度が強いのかもしれない。
とは言え、公私の別を厳格にしながらも、同時に慈愛溢れる包容力を兼ね備える児玉将軍の姿には素直に感銘を受けることが出来るね。
職務に忠実な判任官を賞するエピソードにしても、この様な話一つ取っても、ちゃんと後の世に伝わってほしいと思うよ。
それにしても、優れた人物とは遥かな過去にしか存在しないのだろうか?
実に残念な事ではないか。(´;ω;`)
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