今回は原敬(1856~1921)氏のお話だが、何れ程の人物であっても、全てが後の世の歴史になる訳ではない様だ。
誠忠無二の原敬
關西( 関西 )旅行に出掛ける原敬氏が、玄關( 玄関 )で靴をはいてゐると、送りに出た奥様が、
『京都の御土產には、いもとごばう( ごぼう )をお忘れなく願ひます』
と言つた。原氏は、笑ひながら、
『いもとごばうのお土產( 土産 )、まるで法事の買物のやうだな』
と、例の調子で笑ひながら元氣( 元気 )よく出掛けて行つた。
これが、原氏と奥様との間に交はされた最後の言葉にならうとは、神( 神 )ならぬ身の誰知るものもなかつた。が此の事があつてから十五分後には、稀代の政治家原敬氏は兇漢中岡某のため、東京驛( 東京駅 )頭に於て遂に斃れて仕舞つたのだ。
原氏に關する( 関する )著書、傳記( 伝記 )は五・六册( 冊 )も、世の中に出てゐると思ふが、どれもこれも、原君の人物の骨子を書いてないのは非常に遺憾なことである。
世に原氏は、誠忠無二の人、忍耐努力の政治家――一生涯を、艱苦と戰つて自己の運命を開拓した人として傳へられてゐる。日本に於て、最初の平民宰相として國民( 国民 )に臨み、カミソリの如き切味を持つ敏腕家として一般から認められてゐる。
以上の、觀察( 観察 )は成程原氏の一面の觀察として誤りはないにちがひないが、まだまだ原氏はたくさんの美點を持つてゐた人である。
人は、原氏を洵に、人情味のない、冷やかな――議會の答辯( 議会の答弁 )其の儘の人柄のやうに評することもあるが、事實( 事実 )は、全く正反對( 正反対 )で、原氏位、人に對して人情の厚い人はなかつた。原氏程親に仕ふるに至孝の人は、珍らしい。實に原氏は、溢るゝ許りの溫情( 温情 )に富んだ人であつた。
自分は、原氏が、あれ程の立派な地位になつたのも畢竟、此の美點( 美点 )が永年の間に結晶したに外ならぬと思つてゐる。
又、原氏をしていかなる地位にあつても此の美點を失はなせなかつたのは、原氏の母堂であつた。安井息軒の言つた如く、其の母賢にして其の子の愚なるもの蓋し稀である。実に原氏の母堂は賢婦人であつた。
嘗て、原氏が、二度目に内務大臣になつた際、郷里にあつた原氏の母堂は原夫人(淺子)に向かつて、
『敬が何十萬圓かの金が出來たと言ふ噂を聞くが、若しそれがほんとならば、政治家として洵によろしくない事だから、東京へ出掛けていつて意見しようと思ふが・・・・・・・』
と、言つてよこしたことがあつた。
幼少の折、父を失つた原氏が他日、斯の如き立派な地位を得たと言ふことは、勿論、原氏自身の奮闘努力によることには相違ないが、その根本を尋ぬれば、實に母堂の賜と言はねばならない。原氏も亦、此の母堂の厚恩に對しては、常に心に銘じ奉養至らざる所なかつたのである。
母堂の教訓と相俟つて、原氏をして後顧の憂なく、思ふ存分活躍せしめたのは、淺子夫人の内助の力であつた。夫人は素黑澤尻の士族の家に生れたが、後、零落して花柳の巷にあつた。而し、泥中の蓮とは全く夫人のために作られた言葉の如く、正妻になつてから、二十年の間と言ふもの、全く原氏のために、一身を捧げ内助の功を致したのである。不幸にして斯かる境遇にあつた人であるから、勿論、學問( 学問 )の素養こそなかつたが、婦人としての嗜は何一つ缺くる點( 欠ける点 )がなかつた。客に出す茶呑茶碗、百六十組の中二十年の間に、割つたのは、僅かに四つだけであつたと言ふ事や、古新聞古雑誌を賣つた貯金のみが、壹千三十七圓あつたといふ事等は、夫人がいかなる人であつたかと言ふことを物語つてゐる。
實に原氏は、此の母、此の妻を有した幸福( 幸福 )な人であつたと言はねばならぬ。又、かゝる母、かゝる妻を持つたといふことは一面原氏の人格がどんなに高潔であつたかと言ふことにも歸する理である。かうした肝要な點が原氏の傳記の中に缺けてゐると言ふことは、實に殘念( 残念 )なことである。
自分等夫妻は、原家に知られて二十有餘年親しく其の家庭にも出入し、比較的眞の原氏にも接することが出來たから殊更に此の感が深い。
政治上の働についても、世に知れぬたくさんの物語が殘つてゐる( 残っている )。
原氏は實に正直の人であつた。
西園寺公が政友會總裁當時( 政友会総裁当時 )、原氏は、總務( 総務 )の要職にあつた。けれども、金錢の出入は實に嚴格( 実に厳格 )であつた。西園寺家には、今だに原氏の書いた、五十錢の傳票( 伝票 )が記念のために殘されてゐる。其の死後、帳簿を調べて見たところ、自分の財政と、黨の金とは全然區別( 区別 )してあつて一錢の誤りもなかつた。さうして八十萬圓と言ふ黨の金( 党の金 )は、認められてあつた。遺言書によつて次の總裁高橋是清氏に傳へられたのである。原氏は、政治的生涯に於ては、大成功者であるが決して金を殘した人ではない。後繼者( 後継者 )たる貢君も遺產( 遺産 )として僅かの金を相續( 相続 )したに過ぎなかつた。
原氏は又涙の人であつた。
一旦此の男はと人を信ずるや他の者が何と言つて行かうと決して取上なかつた。
古賀廉造君が疑獄事件で問題となるや古賀のために三日四晩寢ずに心配し、其の後もあく迄相談相手となつてやつた。
とかく人間といふものは、刑事問題の被告になどなる、所謂落目にあると寄つかぬものだが、遠藤良吉君が疑獄事件で被告になつた時にも親しく呼んで種々慰めてやつた上、小遣にしろと言つて金一封(千五百圓)を與へたといふ事もある。赤城館事件で自分が災難を蒙つた時など原氏自身で拙宅まで見舞に來てくれた。
此の情合、此の涙が總理大臣( 総理大臣 )としても大政黨の總裁としても絶大の聲望( 声望 )をかち得た所以である。自分は、我が原敬氏を思ふ時、必ず思出すのは英國のピツト( ピット )である、實に兩者( 実に両者 )は東西兩洋( 東西両洋 )に於ける偉傑である。
原氏が兇刄に斃れた報を西園寺公が聞いた時、公は
『原は誠忠無二の漢であつた』
と言つた。山縣公は、
『原敬は俺が殺したやうなものだ』
と、悲んで七日七日の香華を手向けることを怠らなかつた。
兇刄に斃れる以前に原氏には辭意( 辞意 )があつたのだが時恰も 今上陛下(當時皇太子殿下)御外遊中であつたため、とにかく御歸朝遊ばされる迄と勸めて( 勧めて )思ひ止まらしたのが兩公( 両公 )であつたのだ。原氏の兇刄に斃れた際の兩公の言葉は味へば味ふ程原氏の偉大さを思はせるものがある。(代議士 武藤金吉)
一部の漢字は原文と違います。
この武藤金吉と言う人物は、原敬の忠臣だったとか。
この文を読めば、確かにその様だ。
ただ、そうであっても、これは純粋に賞賛出来る人物に対する、歴史に残る証言である訳だ。
それにしても、赤城館事件とは何だろうか?どうにも情報が乏しいのが問題だ。
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